yukihime26
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2023.10.07
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第二十六回 「化して一塊の石」
「左様なら春川さん。」
と、早や告別の言葉を延べて、清子の差し出している手をば、春川も「左様なら、清子さん。」と答えて握りしめたが、唯だ此の一握りが、二人の間の最後かと思うと、離すに忍びず、離されるに忍びず、早く離して立ち去らなければと、心には思うのだが、身も肉もその心に反抗する様に波立って、自ずから引き寄せられている。
春「清子さん」
清「春川さん」
残り惜しさに呼び交わす声と共に、何時しか左右両手をまで取り合って縋(すが)り合う様子は、目に見えない、一種の絆で堅く縛り合わさているにも似て、引き裂けば、血が出るのではないかと疑われる許りである。
清「春川さん、次の世でお目に掛かります。」
と細語(ささや)く声が、僅(わず)かに清子の唇から洩れると、
「ハイ、天国では必ず夫婦です。」
との声が、春川の口から出る。
言うも言われるも、夢の心地で、若し此のままに、捨てて置くならば、化して一塊の石にもなるのではないかと思われたが、このようにしていては、切りが無いと、清子が先ず気が附いて、手を解くと、春川も非常にゆっくりと腕を引き、更に、
「左様なら」、『左様なら』と言い交わすのを、全くの最期と為し、春川は蹌(よろ)めいてここを去った。
去りつつも春川は、再び見返る事は出来ずに見返えらず、必ず心が弛んで、清子の許へ馳せ寄るに至ることを恐れ、清子も又、首を挙げて見送る事は出来なかった。
見送れば、必ず引き留め度い心が起こるのを恐れ、
「此のまま再び、何所をも見ずに、ここで死んで仕舞うなら、却(かえ)って幸いであろうのに。」
と呟(つぶや)き、幾時間か首を垂れ、身動きをもしないのは、真に死を祈るかとも見えたが、頓(やが)て又口の中で、
「悲しみに死ぬなどと言うけれど、是ほどの悲しみに逢い、まだ死なないとは、アア是より上の悲しみは、此の世に在る筈がないから、私は悲しみで死ぬ事は、出来ないと見える。未だ天が引き取って下さらないのか。」
などと呟き、重い身を起こして立った。最早や私には、人生というものは無い。世間にも出るべきではない。
全く死人も同様に、世の人と隔たって、余命を送らねばならない。
世間に出て、見つ聞きつ又見られつ聞かれつするのは、再び悲しみを招く元である。父上が如何(いか)に言おうとも、又如何に怒り給うとも、生きながらに死人となって、一室の中に長い此の後の身を、葬るだけだ。
是と言うのも、全く私の一旦の過ちから来た事だから、誰を恨むことも無い。若し彼(あ)の過ちさえ無かったならば、思う人の妻と為り、世に例(ためし)とて無い程の、嬉しい生涯を送られる身だったのに、それが却(かえ)って、これ程までの憂き目に逢うとは、アア過ちの酬いは恐ろしい。
此の上、再び過ちを犯さない事が、身を守る道なれば、過ちの来るべき道のない一室の中こそ、安穏であるけれど、殆んど尼寺に入る心地で、心の中に此の世の一切に対し、
「さらば、さらば。」
と暇(いとま)を告げつつ、我が家を指して歩いて来た。
家の内から、チラリと此の様を見受けたのは、友子である。友子は清子の歩み振りが、只ならないので、若しや病気かと疑って、立って来て、縋(すが)らせる様に、清子の手を取ったが、
清子が一語をも発せず、又その青ざめた顔を、上げもしないので、大凡その様子を察し、深き憐れみを催したので、自分も同じく無言で、清子をその部屋まで送り、部屋に入れて、先ず入り口を鎖(とざ)して置いて、
「清子さん、どうしたのです。」
問われて清子は、途切れ途切れの泣き声で、
「もう友子さん、私は世間へも出ませんから、どうか世間と私との間に立ち、私の身を守って下さい。」
友子はその親切な天性から、
「ハイ、再び世間へ出たいと仰る時までは、ーーー。」
清「世間の言葉が、私の耳に達せず、私の様子も世間へは聞こえない様に。」
友「ハイ、良く分かりました。貴女と世間との間に立ち、暫(しばら)く隔てと為って上げましょう。ですが清子さん、貴女は春川さんを断りましたか。」
清「ハイ断りました。あの方はもう、此の家を立ち去った筈ですが。」
友「ハイ、父上に何事をか話たまま、私へは暇(いとま)も告げずに去りましたから、どうも様子が宜しくないと思って居ました。けれど貴女は、彼(あ)の様に、春川さんを愛して居らしったのに、先ア何の為にお断りなさったのですか。私どもには更に合点がーーーー。」
清「もう問うて下さるな。春川さんの事は、猶更(なおさ)ら私の耳へ入れず、私の口からも出ない様にさせて下さい。」
友子は再び問おうとはせず、何事も私が良く心得ましたから、貴女は先ず落ち着いて、暫(しばら)くがほどは、お寝(やす)みなさい。
オオ、オオ、瞼を膨(は)らして、目の中まで赤くなって居らっしゃる。何も心配しない様になさらないと、病気になります。ナニ阿父(おとう)さまは、きっと御立腹でありましょうけれど、私が良く宥(なだ)めますから、サア心静かにお寝みなさい。」
と言って、看護婦も及ばない程の注意で、清子を寝させて、自分は引き返して、清子の父、良年の部屋へ入って行った。
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