aamujyou140
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
since 2017.8.19
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百四十 哀れ戎瓦戎 八
蛇兵太(じゃびょうた)が異様に心を動かすのも無理は無い。彼は戎瓦戎に命を貰っている。
戎は蛇兵太の様子を怪しみなどする暇は無い。
直ぐに守安の手帳を取り出し、
「此の者の住居も分かって居ます。」
とて差し出した。蛇兵太は無言で受け取り、黄昏の薄明りに透かして見た。常の人なら最早や暗くて読むことは出来ないけれど、彼の眼は長年の職務の為に殆ど猫の目の様な力を得て居る。
「アア貴族桐野家へ届けるのか。」
と呟き、直ぐに其の口で、
「御者(ぎょしゃ)、御者」
と叫んだ。彼は今夜捕り物が有るかも知れないと辻馬車を雇って待たせて有ったと見える。直ぐに御者は馬車と共に現れた。
蛇兵太をは先ず守安を抱いて之に載せ、次に戎を乗らせ、最後に其の身が乗った。此の間総て無言である。
無言の儘(まま)でやがて桐野家に着いた。未だ宵だけれど早や締まって居る門を叩き、内より戸を開く番人に向かい、
「当家の御子息送り届けます。」
と蛇兵太は言った。
「エ、御子息」
と番人は怪しんだが、直ぐに戎の抱いて降ろした怪我人の顔を見て、
「ヤヤ守安様ですか。」
と、驚いて内に入り、その旨を取り次ぎに告げ、取次は執事に告げ、執事は老女に告げ、老女は奥向きに告げ、奥向きは旦那に告げ、家内中の混雑とは為った。
其の中に戎は守安を先ず取次室まで抱いて行き、家の人々に引き渡した。
混雑が一通り鎮(静)まればきっと色々の尋ねを受けるだろうと、戎は少し躊躇して居たが、忽ち自分の肩に重く人の手の掛かるのを感じた。是は蛇兵太の手に外ならない。彼は、
「もう用事が済んだから尋常に引き立てられよ。」
と口には言わないが挙動に示すのだ。戎は無言で首を垂れ、無言で蛇兵太に従って外に出た。アア愈々終身懲役の獄へ連れ帰られる時がが来たのだ。彼の心の中は何の様だろう。
彼は蛇兵太と共に再び馬車に乗った。けれど幾等断念(あきら)めた身でも、断念め切れない一事が有る。其れは小雪の事だ。自分が此のまま牢に入れば、小雪は広い世界に唯の一人と為り、何の様に世を送ることが出来るだろう。
昨夜家を出る時に、或いは戦場に丸(弾)に倒れ、再び帰ることの出来ない身と為るかも知れないと思わないでは無かった。其れが為にあわただしい中にも、食うに困らないだけの手当をして来たけれど、其の手当が何になろう。切めては守安の居る所だけも知らせて置けば又力を得ることが有るかも知れない。是れだけの事は何うしても為して置かなければと思い、彼は涙の出る様な声で、
「警官よ、誠に相済みませんが、止むを得ぬ用事が有りますから、何うか途中で此の馬車を私の宅の前に寄せ、只(た)だ三分間、私を家に入らせて下されませ。其の上は心置き無く命令を奉じます。」
如何に蛇兵太だとは言え、命の親に是だけの許しを拒むことが出来ようか。併し彼は猶(な)も無言だ。異様に顔を顰(しか)めて考えた末、単に一言、御者に向かい、
「アミー街七番地」
と告げた。彼は戎の家を覚えて居る。
この様にしてアミー街に着く迄の間、物思わしげな戎の様子に劣らないほど、物思わしそうに蛇兵太の様子も見えて居たが、間も無く其の町の入口に達すると、町が狭くて、其の上道路工事が始まって居る為に、馬車は止まった。
蛇兵太は先ず降りて御者に向かい、
「茲(ここ)で好い、賃銭は幾等遣ろう。」
と問い、御者が、
「新しい座席が血に汚れましたから、お高いかも知れませんが」
と断って切り出す値を苦情も無しに払い渡した。
続いて降りた戎は聊(いささ)か怪しんだ。茲(ここ)で馬車を帰えすとは何の為だろう。扨(さ)ては監獄まで徒歩で自分を連れて行く積りかしら。併し怪しんで居る場合では無い。直ぐに彼は吾が家の方に進むと、
「七番地は此の家だ。」
と蛇兵太は言い、戎に代わって戸をを叩いた。戸は直ちに開いた。
「此の門口に待って居るから」
とのみ蛇兵太は言った。
「早く用事を済ませて、命令に応ぜよ。」
との意味が籠って居る様にも思われた。戎は一礼して内に入った。
a:380 t:1 y:0