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噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
五十四 客と亭主(あるじ) 一
「勘定書を示して下さい。」
アア此の客は、唯だ勘定を払った丈で、何事をもせずに立ち去る積りだろうか。小雪に何か用事は無いのだろうか。
勘定書は出来て居る。今朝早く手鳴田夫婦が、額を合わせ智慧を絞って作ったのだ。その大略を記して見れば、
「▽一金三円、夕飯料▽一金十円御部屋代▽一金五円灯火代▽一金四円炭代▽一金一円御給仕代▽合計金二十三円」
とある。この様な高い宿賃が、世に有るだろうか。全く暴利と言う者だ。けれど主人手鳴田は、鋭い眼で、此の老人が尋常者(ただもの)で無い事を察し、必ず是れ丈の勘定をも払うだろうと見抜いて居る。但し妻の方は多少驚いたけれど、日頃夫の眼力を尊敬して居るだけに同意した。夫は言った。
「何しろ千五百円からの借金を負って商売をして居るのだから、取れる客からは取らねば成らない。」
妻は答える様に言った。
「成る丈け家の費用を詰めますよ。小雪を叩き出してしまいます。」
小雪を叩き出してしまうのは、必ずしも家の費用を詰める為では無い。自分の娘さえ持って居ない様な立派な人形を、小雪が持って居るのが癪に触って、到底あの様な者は家に置かれないと、決心して居るのだ。
それは扨(さ)て置き、客が「勘定書を示せ。」
と言うや否や、直ちに内儀(おかみ)は勘定書を出した。けれど貧民同様の、此の羊羹(ようかん)色《黒、紫色が色あせて、古ぼけた色》の着物を着た老人が、二十三円(現在の役29万円)と言う巨(でか)い勘定を、払う事が出来るだろうか。払う事が出来るにしても、素直に払うだろうかと、聊(いささ)か心配な気がするから、どうだろう、どうだろうと心配しながら、その顔を眺め上げた。客は少しも気にして居ない様子である。受け取った勘定書は良く見ずに。
「内儀(かみ)さん、此頃の景気は何うですね。」
こう問われると、泣言を並べるには慣れて居る。
「エ、景気、景気と言って貴方、此頃の様な不景気は有りはしません。折々でも、貴方の様な気前の好いお客様が、来て下されば兎も角ですが、家内は多し、その上に小雪の様な者まで。」
客は忘れた風で、
「エ、小雪、小雪とは」
内儀「昨夜貴方様が傷(いた)わって下さった、あの厄介者です。小娘です。あの様な者まで食い倒しますもの。耐(たま)りは仕ません。それに租税や附課税とやらも、年々に高くなりまして。」
客は少し考える様にして、
「あの小娘を手離してしまったら何うです。」
内儀「エ、手離すとは。」
老人「私に呉れるのさ。それほど邪魔なら、私が貰って進ぜましょう。」
何気なく言うけれど、是れが此の老人の、此の家に泊った唯だ一つの目的では無いだろうか。
全権大使が、国際の大問題の口を切る用心も、之に過ぎない。老人の胸は、人知れず動悸が打って居る。内儀は飛び附く様に、
「本当に貰って下されますか。」
客「貰いましょう。」
内儀「何時引き取って下されます。」
老人「今直ぐに引き取って連れて行きます。」
内儀「本当に有難い事ねえ。それでは小雪を上げましたよ。」
老人「ハイ、小雪を貰いました。」
全く約束は出来てしまった。案ずるより産むが易い。
老人は初めて、前の勘定書を聞いた。二十三円と言う貪り方には一方ならず驚いたけれど、何にも言わない。五円金貨を五個(いつつ)取り出してテーブルの上に置いて、
「是でお釣は要りません。サア小雪を呼んで下さい。」
内儀は転々(ころころ)として、
「小雪、小雪、サアここへお出で。」
と呼び立てた。声に応じて出て来たのは、憐れむべき小雪では無くて、主人手鳴田である。彼は柄に無く優しい声で、
「イヤ、小雪の事に就いては少し私からお話しが有りますから。」
と言い、妻に向かっては、「退け」と言う様に目配せした。
妻は
「だって、貴方、此のお客様が貰って遣ると仰るのに、イヤもう上げてしまいましたのに。」
亭主は再び妻を睨んだ。その目の中にただならない光が籠って居るので、再びとは争い兼ね、妻は次の間に退いた。後で手鳴田は老人を招いて椅子に座らせ、その身に向かって座し、尤もらしい細い声で、
「私はあの少女が可愛くて成らないのです。」
客「少女とは、」
主人「小雪です。何しろ今まで我が児の様にして、育てて来たのですから。呉れと仰(おっしゃ)られても、実は手離すのに忍びません。」
と言い、密かに客の顔色を見て、
「ナニ、それも事と次第に依っては、差し上げ無い者でも有りませんが。何にしても可愛い娘も同様なアノ小雪を、通り一遍の、見ず知らずの方に上げると言う訳には行かないのです。上げた上でも、無事であろうか、何の様に育って居るかと、時々は見に行き度いと思いますから、お名前をも伺った上で無くては、ハイ失礼では有りますが、貴方の旅行券の端をでも、一寸見せて戴く位の事は致しませんと。」
旅行券の端を見せて呉れとは、当たり前の事の様で、実は何たる皮肉な言葉だろう。けれど客は驚きもせず断固として答えた。
「コレ、御主人、巴里から僅か五里か六里の地方へ出て来るのに、旅行券まで用意して来る人が何処に在る。私が小雪を貰うと言うのは、全く貰う丈の事。貰うに止(とど)まるのだ。私の名前も住居(住)も聞かせる事は出来ない。今貰えば二度と再びお前さんに尋ねて来られては成らない。是れ限り音信不通と言う約束で貰うのだ。何も長い短いを言う事は無い。否なら否と断りなささい。否ですか応ですか。音信不通で小雪を呉れますか、呉れませんか。サア返事は唯だ一言で宜しい。」
何と言う明白な言い方だろう。手鳴田は殆ど自分より上手の相手かと怪しんだ。此の様な相手に向かって、何も面倒な余計な駆け引きは要らない。彼は短刀直入に、
「私は千五百円の金が要ります。それを呉れれば、小雪を差し上げましょう。」
と大きく吹いた。客は無言で、穢い革財布の中から、直ぐに五百円の銀行券三枚を取り出し、テーブルの上に置いて、自分の手を又その上に置き、
「サア、小雪をここへ連れて来て、引き換えに渡しなさい。」
たとえ何の様な大金満家にしても、こう手早い決断の出来る者では無い。流石の手鳴田もあっけに取られない訳には行かない。
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