hanaayame22
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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二十二 何の様な優劣が
梅子、松子、草村夫人、葉井田夫人、瓜首法務士、虎池大佐、丸亀男爵の七人、主人蔵戸子爵と共に食堂に入った。別に変わった事も無く、唯だ通例の晩餐では有ったけれど、食い物も、飲み物も一切の器具(うつわ)と共に、善尽くし美尽くして居た事は無論である。
客の中で最も忙しかったのは、草村夫人である。此の夫人は美しい器物を見て、密かに値を積もって見る事が好きで、その上に美しい飲食物をば、自分の財布を痛めず味わう事が一層好きである。
目にも口にも暇が無い。そうしてはその目は、器物を見分けると同時に、客の誰が一番此の家に対して、勢力が有るかをも見分け、口は飲み食いと同時に、客一同へそれぞれ、お世辞を加減して行かなければ成らない。
先ず八人芸の有様で有ったが、流石は事に慣れた身なので、是だけの芸を、悉(ことごと)く首尾良く勤めて、最後に、何うも瓜首と云う奴が、最も主人子爵に勢力が有るらしいと見て取った。尤(もっと)も是は無理も無い。瓜首の挙動が、一種違って居る。
彼は何(どう)しても、此の晩餐で、梅子、松子の優劣を鑑定する、参考の材料を得なければ成らないと、決心して居るのだから、飲食の事は忘れる迄に、耳と目とに力を集めて居るけれど、悲しい哉、その材料が得られない。
梅子の方は客一同の話に、一々自然の同情が、その顔に現れる様に見えるけれど、何分初対面の人が多いゆえ、自分からは話をしない。だが一度、並んで居る葉井田夫人に何事をか問われて、小声で返事したのみである。
松子の方は客の話に、少しも顔の様子を変えないけれど、是も唯一度、並んで居る子爵に何事をか答えた丈だ。けれど、両女の隠然たる潜在力の勢力は争われない。
此のテーブルを囲んで一同の談話が、総て此の両女を喜ばせ度いとか、面白がらせ度いとか云う心から出て居るのだ。虎池大佐の、昔印度に在勤中の軍隊の滑稽話は、多分梅子を笑わせ度い心が半分は交じって居るだろう。
丸亀男爵の文学上の広い範囲にあまねく及ぶ批評の怪弁は、松子の好みに投じ度いとの意が、過半を占めて居るらしい。
双方の話を横合いから一々引き受け、梅子にも松子にも代わって面白がりもし、笑いもしたのは草村夫人である。
その面白がる所にも笑う所にも、空々しい様子を見せなっかったのは、流石に熟練である。
その中に晩餐は、淡(あっ)さりと終わった。直ぐに葉井田夫人の注意で、女連れだけ先ず談話室へ退いた。
後に残った男客三人は一斉に主人子爵の様子を見た。子爵は静かに、
『春川梅子嬢と草村松子嬢との間に、何の様な優劣が有りましょうか。』
と問うた。
大佐は首を傾けた。瓜首は徳利の様に頭を振った。
男爵は考えつつ、
『何方でも、一人を見れば類の無いほど優って居ます。』
子爵『成るほど面白いお返事だ。ですが今の様に二人を並べて見ると。』
男爵『一年見たとて優劣は附きません。』
瓜首は呻(うめ)いた。
『アア到底参考の材料は無い。 何うせ優劣が無いのだから、少しでも誰かの意見が、傾いた方を選べば好い。』
彼は当惑の余りに、此の様にさえ思って居ると、やがて大佐が、
『梅子嬢の方は、名乗らなくても、当家の血筋と云う事が分かります。亡くなられた太郎君の顔に、余ほど好く似ています。』
瓜首は思った。
『アア梅子に仕よう。』
子爵は直ぐに、
『私もそう思いますが、その代わり松子の方は気質が、確かに当家の血筋を現して居るのです。』
男爵は賛成らしく、
『成るほど、一方は容貌が血筋を現し、一方は気質が血筋を現しているのですね。愈々(いよいよ)優劣は有りません。』
瓜首は又呻(うめ)いた。
『是では到底判断の仕様が無い。』
大佐は語を継いで、
『何うです子爵、是から婦人一同と美術室へ行こうでは有りませんか。あの部屋には確か、太郎君と次郎君との肖像が、額に成って掛かって居たと思いますが。』
子爵は死んだ二人の息子の名を聞き、少し悄然(しょうぜん)《しょんぼり》としたけれど、直ぐに打ち解けて、
『ハイ二人の肖像が懸かって居ます。久しく私は行って見ませんけれど。』
大佐『では愈々行きましょう。行って梅子嬢の顔と太郎君の顔と見比べようでは有りませんか。』
瓜首は食堂で得られなかった材料が、若し美術室へ行けば得られようかと思い、賛成の意を表し、
『成るほど、行きましょう。行きましょうう。』
子爵は之に応じて立ち上がり、先ず婦人達の居る談話室へ、一同を従えて入って行った。
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