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椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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椿説 花あやめ 黒岩涙香 訳
三 廿歳に足らぬ娘二人
今は早や三月を経た。真にプリンス号の沈没は近来の惨事であった。之が為め悲嘆に沈んだ家が、英国中に何れほど有ただろう。当座の中こそは孰(いず)れも、もしや、何うかした幸運で、我が家の人だけは通り合わす船にでも救われて、助かっては居ないだろうか。今に嬉しい知らせが何所からか来はしないかと、心待ちもしたが、気の毒にも皆、空頼みであった。
昔から愛蘭(アイルランド)の西の方で溺死した人の死骸は、早やい潮の流れの為め、直ぐに果ても無い北洋の方へ押し流されるので、何所の浜辺へも漂着しないと極まって居る通り、死骸の分かったのさえ少なかった。
殊(こと)に最早や三月を経ては、誰の胸にも、その様な空頼みは絶えてしまい、泣く人は泣き尽くし、断念(あきら)める人は断念め尽くして、それぞれ後の処分をも済ませたが、唯だ泣き尽くすにも尽くされず、断念めるにも断念らめられないのは、蔵戸子爵一家である。
二人の相続人を一時に失い、子爵が幾年月の艱難で積み上げた財産も、千有余年名誉の中に伝わった家名も、之切り絶えてしまうのだ。後の処分を仕ようにも、その仕様が無い。
子爵も葉井田夫人も、一時に挫けてしまった。夫人は一旦気絶したまま病となり、二ケ月ほど床を離れず、子爵の方は病気にこそ成らないけれど、殆ど喪心した人の様に、唯だ一室に閉籠り、誰にも顔を合わさない事に成った。
そのうちに子爵の健康も次第に衰え、家令扶等が心配して、その居間へ運び入れる食物さえ、手が付かずに下がる事が多いので、何うなる事かと空しく額を集めるのみで有ったが、或日の事、非常に厳重な面持ちで此の家へ尋ねて来て、是非とも主人子爵にお目に掛からなければ成らないと頑張った人がある。
之は先祖代々、此の家の為に第一の忠臣と立てられる、法律家瓜首真造と呼ばれる堅人で、土地財産の登記から株券公債その他、法律に関係のある当家書類一切を保管する人である。
此の人は先ず家令の白井と云う者に逢い、子爵が何人にも面会しないと云うのを聞いて、
「それならば、面会して下さる時まで、幾日でもここに待って居ますから、その旨だけを子爵へ申し上げてお置き下され。」
と云い、猶(なお)も白井の躊躇する様子を見て、殆ど叱り付けるほどの口調で、
『一家の不幸は不幸として、善後処分を考えるのが、貴方や私の務めでは有りませんか。子爵の御容態も宜しく無いと聞きますのに、今の中に相談して置かなければ、此の上、万一、事でも有れば何しますか。』
白井は成る程と感じ、返す言葉も無く立って、子爵の居間に行き、有りのままを言上したが、子爵は力無げに暫(しば)し考え、
『外の人と違い、瓜首真造ならば、逢わない訳にも行くまい。幾日でも玄関に待って居るなら、伸ばしたとて同じ事だから、今逢おう。』
と云われた。
直ぐに瓜首は子爵の居間に通され、
『子爵閣下、此度のお家の不幸は、誰であっても、悲しまない者は無く、その悲しみは言葉に尽くされませんから、此の真造は一切お悔やみは申し上げません。唯だ今日参りましたのは、高い当家の家名と夥(いちじる)しい当家の財産に付き、何とか善後の策を講じなければ成らないと存じますので。』
子爵は少しも元気が出ない。
『イヤ、瓜首さん、家名が大事、財産が大事と思えばこそ、末の末まで考えて、様々の計画も立てましたが、肝心の相続人が二人まで亡くなっては、もう何と思案の仕様も有りません。思案をしたとしても、私には一寸先も考える事が出来ないから、何うか貴方の考へ次第、イヤ私でも葉井田夫人でも、もう貴方より上の知恵は出ないのです。
私の死んだ後は、財産一切を慈善事業に寄付するとも、学事の費用にその筋へ献納するとも、又は貴方が、何か職業に関係の有る公共の事業に用いるとも、宜しい様に計らって下さい。今まで気をも引き立て、心をも浮き立たせる種であった、此の家名と財産とは、今は却って荷物です。之さえ無ければ、後取りが死んだとて、こうまで力は落としません。』
真に絶望の底に達した状態である。しかし瓜首は毅然として、
「イヤ私も全く太郎殿次郎殿の死去と共に、当家の血を引く人間は最早や此の世に絶えた者と思いました。六、七代も前までは枝も栄え、葉も茂り、沢山の親類縁者が有りました蔵戸家が、何う云う訳か、二百年以来、段々に死に絶えましたので、実に悲しい次第だと嘆きましたが、徒らに嘆くのは私の職掌で有りませんから、思い直して熱心に古い書類を調べました。
何処からか当家の血筋を引く人を見出し、何でも蔵戸家と云う立派な家名が、後々まで続く様にしなければ、私の役目が済まないと、殆ど寝食をも忘れる程にして、漸(ようや)く血筋の猶(ま)だ残って居る事を見出しました。」
子爵の眼に、初めて人の眼らしい光が見えた。
『エ、猶(ま)だ何所かに遠い血筋でも有りますか。』
瓜首『ハイ、それも余り遠い血筋では無いのです。初めの中は古い所ばかりを調べましたから、何の血筋も何の親戚も皆死に絶え、到底目的は達せられないと思いましたが、ズッと近い所に、左様、今から僅(わず)か数代前に、当家から分かれた弟筋に、今生き残って居る人が有ります。しかも二人。』
子爵『エ、二人』
瓜首『ハイ、二人とも廿歳には未だ足りない娘です。』
子爵『エ、娘、では姉妹ですか。』
瓜首『イイエ、姉妹同士には当たりませんが、土地が離れて居ますので、互いにその様な従妹が有るとも知らずに暮らして居るのでしょう。』
子爵『アア、女の子では此の様な時の相談相手には成らず。』
瓜首『イイエ、子爵、相談相手には成らずとも、その中の一人を当家の相続人に成さらなければなりません。』
子爵は辛うじて合点が行った様に、
『成る程、その中の何方(どっち)かを。』
瓜首『そうです。当然相続人と定めて、此の家へ迎える事にしなければ。』
子爵『シタが何方にしましょう。』
瓜首『何方にと云って、未だ詳しい事情もお聞き成さらずに、決する事が出来る筈は有りません。じっくりと双方を取り調べ、心栄えから気質から、良く優劣を見比べた上で無くては。』
子爵『そうです。成る程そうです。』
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