巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame34

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 7

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      三十四 これが危険です

 誰が考えたとて梅子と松子との優劣は分からない。分からないのでは無い。優劣が無いのである。一方が或る点で優って居れば、他の方は他の点で優って居る。全く平均したと云う者で、何時まで経っても勝負は附かない。子爵自らもそう思い、葉井田夫人もそう思い、瓜首法務者もそう思った。

 所が、先頃から勝れずに居た子爵の健康が、段々悪い方に向かい、或る朝、新聞を読んで居て気絶した。
 先頃まで新聞は昼過ぎに着く事であったが、此の程から、運輸の便が更に開けたと云う事で、朝の間に着く様に成った。

 それが子爵に一つの楽しみを添え、いつも朝は気分が引き立つ様に見受けられたのに、何故の気絶だろう。或いは驚く様な記事が又有ったのかと、第一に不審に思ったのは、無論葉井田夫人であるけれど、そうでは無かった。

 全く身体に病が出来、気力が衰えた為であった。直ぐに医師を迎え、それぞれの手当をして、間も無く元に復(かへ)ったけれど、医師は容易ならない顔をした。そうして気遣って問う葉井田夫人に向かい、別室でこう答えた。

 『イヤ、別に特殊の病気に襲われたと云うのでは有りませんが、余り心配を成され過ぎて、脳が常調を失したのです。それ丈なら唯だ静養する丈で直りましょうが、酷(ひど)く心臓が衰えて居ます。是が危険です。ナニ今何うこうと云うのでは有りませんが、一週間経たないと、確たる事を申し上げる訳には往きません。』

 何だか奥歯に物の介(はさま)った様な言い様で有る。
 『今一週間経たないと。』
とは此の一週間の中にも、何の様な変が有るか分からないと云う事かも知れない。成るほど、此の七、八か月の間、子爵が心配なされた事は、何れ程とも譬(たと)え様が無い。

 此の頃でこそ、梅子松子の愛に紛れ、時々は笑みを浮かべられる事も有るけれど、笑みの後は屹(き)っと涙である。二人の行く末をお考え成さる丈でも、並大抵の事では有るまい。その様な事が亢(こう)じて脳の調子にまで故障がお出来なさったのだ。

 葉井田夫人は心細さに耐えられない気がして、直ぐに瓜首を呼びに遣った。呼ばなくても午後には来るに極まって居るけれど、それまで待って居られない。間も無く瓜首は来た。事の次第を篤(とく)《じっくり》と聞いた。聞いて大いに打ち驚き、同じく好い考えが出ない風で、又例の癖を出し、徳利を振る様に首を振った。

 瓜首では無くて振首であるなどと、冗談を云う場合では無い。残念な様に嘆息して、
 『アア先日私が松子さんにお極め成さいと申し上げた時、その通りに極めてしまえば、今頃は子爵も心が休まって、嬉しく養女披露の宴でも開く頃ですのに、ねえ夫人、全く此の御心配が元に成ったのですよ。』

 葉井田夫人は考へつつ、
 『ハイ私もそうだと思いました。』
 瓜首『御自分では梅子も松子も可愛いくて、その愛に引かされ、到底お決し成さる事は出来ませんから、吾々で取り極め、その御心配だけ緩(ゆる)まる事にして上げましょう。』

 夫人は余り気の進まない様子だけれど、
 『ハイそうでも致しましょうか。』
 瓜首は力を得た様に、
 『貴女がそう御同意ならば、もう何も評議には及びません。先日の一条で既に分かった通り、両嬢の優劣はもう極まって居ますから、私から良く申し上げましょう。』
と云い早や立ち掛けた。

 葉井田夫人は何とも返事せず、唯だ無言で俯向いたが、愈々(いよい)よ瓜首が立とうとするのを見て、
 『でも貴方』
と云って首を上げ、瓜首の顔を見上げた。実に何とも云い様の無い心配が、その眼に浮かんで居る。瓜首は合点した様に軽く呑込み、

 『ナニ御心配に及びません。少し子爵をお驚かせ申す様に唐突には云いませんよ。私の事ですもの、何で子爵の御病気に障(さわ)る様に申しますものか。如何にもです。子爵に、自分はそれほど危篤に見られて居るのかとお疑わせ申しては大変ですから、そこはもう柔らかにーーーー。』
と云いつつ、今度は愈々よ立ち上がった。

 彼は或いは葉井田夫人の心配を、取り違いて居るのではないだろうか。言葉と共に早や戸口の方に向かった。葉井田夫人は遽(あわて)て彼の外被(コート)の端を捕らえ、
 『少しお待ち下さい。』
と云い、ハラハラとと涙を落とした。

 瓜首は振り向いて、
 『イヤ貴女がそうお悲しみ成さっては、益々子爵の御病気に障りますよ。』
 夫人『アレそうでは有りません。』
と云って少し口籠ったが、思い切って、
 『貴方は子爵へ何と申し上げるお積りです。』

 瓜首『無論、相続の事を申し上げるのです。此の件はもう私と葉井田夫人との間で相談を極めたから、御心配成されますなと。イイエ、こう申せば重荷を卸した様にお心が休まりますよ。
 実際お心を休めて好いのです。松子嬢ほどの相続人は、又と得られる者では有りません。』

 夫人は身を震わせる様に、
 『でも梅子と松子の間に、それほど優劣が有るのですか。』
 言葉と共に又涙が雨の様に落ちた。此の夫人が此の様に人を遮る事は今までに無い事だ。



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