ikijigoku26
活地獄(いきじごく) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第二十六回 貴女は瀬浪様では
乞食の子供は背後から瀬浪嬢に従って行ったが、嬢はそうとも知らず、只管(ひたすら)に道を急いで、頓(やが)て教会の入口へと着いたが、伹(と)見れば、入口の横手に非常に高大な一輌の貴族馬車があった。
今まさにその中から一人の紳士が立ち出で、更に続いて紳士の母君とも云うべき、七十近い老夫人が立ち出でようとする所である。嬢はこの馬車の横手を避け、教会に入ろうとして身を別な方に返した折りしも、思いがけなくも目に留まったのは、紳士の顔である。
その紳士は誰あろう、是れこそ兼ねて我が身に恋慕した貴族馬平侯爵である。悪しき所で出合った者かなと嬢は、はっと計(ば)かりに顔を赤らめ、隠れようとしたが、隠れる場所が無い。その中に早や馬平侯爵は、老夫人に何やら細語(ささや)くと見えたが、老夫人と共に嬢の傍に寄って来て、この頃の貴族には珍しいほど丁寧な言葉で、
「イヤ今日は多分教会へお出でになる事と思い、母にもお引き合わせ申す積りで、この通り同道して参りました。」
と云う。嬢は返事する言葉も知らず、逃げ場は無いかと探す様子で空しく四辺(あたり)を見廻わしたが、老夫人は早くも嬢が手を取り、
「オオ銀行頭取上田栄三の娘瀬浪とはお前の事か。以前から息子から話は聞いて居たが、逢って見れば聞いたよりも美しい。アア是なら息子が思い染めたのも無理はない。こう云うと可笑しかろうが、私は貴族でありながら、外の貴族の様に平民の子を嫌わない。
ナニ息子の血筋は外の貴族の二人前も立派だから、平民の子を貰い受けても構わない。私は貴族中の平民主義で、昔しはボルテル先生とも親しくしていた。
ナンでも貴族の血筋と平民の血筋を混ぜるのが好いとはボルテル先生の意見で、私もそれに賛成して居るから、好し好し、近日この婚礼は調(ととの)えて遣る。
嬢よ家へ帰ったら父栄三にそう云うが好い。近々馬平の老夫人が直々に銀行へ行き、縁組の相談をするから、その積りで待って居ろと。サア息子や是で用事は済んだ、直ぐに帰りましょう。枯草に火の附いた様に、隙間もなく多弁(しゃべ)り立てられ、嬢は唯呆気に取られるのみ。流石に馬平侯爵は、交際の法をも知っている人だけに、更(改)めて嬢に向かい、
「実は私が絶えず貴嬢の噂をする所から、老母が一応貴嬢にお目に掛かって置きたいと申すので、今日は同道した訳ですが、何分にも取る年でアノ通り、後先の構いもなく、思う事を皆口に出すのです。孰(いず)れお宅へ伺いますから、何うぞ御尊父にも宜しくお伝えを願います。」
とこう云って喧(やかま)しい老夫人と共に、再び元の馬車に乗り緩々(ゆるゆる)と軋(きし)らせ去った。嬢は如何なる目に逢う事かと、秘かに恐れて居たが、先ず何事もなく済んだので、ホッと息してそのまま教会へと逃げ込んだが、是より凡そ一時間ほど柳條が為に祈り、心の誠を神に捧げ尽くした後で、イザや我が家に帰ろうと、教会を出ると、この時何所から来たのか、以前見た乞食の子供が突々(つかつか)と嬢の傍に進み寄り、
「貴女は上田銀行の嬢様瀬浪様ではありませんか。」
と云う。この様な者から、我が名を呼ばれる事の怪しさに、嬢は殆ど打ち驚いたが、先程からのこの子の様子と云い、何か仔細があるに違いないと思ったので、町の片隅に連れ行って、
「お前は何うして私の名を知って居るのか。」
子「先ほどアノ立派なお老母(ばあ)さんが、貴方の名を呼びましたから。」
成る程、馬平侯爵老夫人が、確かに嬢の名を呼んだ。
「ではお前は先程、私の家の前からここまで尾(つ)けて来たのか。」
子「ハイ尾けて来ました。」
嬢「用事があれば何故家の前でそう云わぬ。」
子「貴女か貴女でないか、分かりませんでしたから、愈々(いよいよ)瀬浪嬢と分かるまで控えて居ました。」
子供の言う所は、益々不思議である。
「ではお前は何の用事だ。」
子供は衣嚢(かくし)を探って、皺(しわ)になった紙切れを取り出し、
「この手紙をお渡し申し上げる為に。」
と云う。
嬢は何となく薄気味悪い心地もしたが、先ずその手紙を取り、皺を延すと、中から現れたのは、是は何としたことか、見違える筈もない柳條健児の自筆である。
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