巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

   五十一  「本当の澄子は今何所に」

 この様にして澄子の父は去ってしまった。この後再び冽には会わなかった。向こうから尋ねても来ず、こちらからも尋ねはせず、つまり両者の間の縁が全く尽きてしまったのだ。

 冽は家に帰ったけれど、当分は澄子の父の厳かな顔と、厳かな声とが、目の底、耳の底に残って居るような気がして何となく心が済まず、自分の身が正人君子の社会から排斥でもされたかのように感じた。人に顔を見られるのも恥ずかしい気がした。

 けれど、澄子が死んだと決まったために、品子も、母御も帰国するには及ばない事となった。二人ともこの点は大喜びだ。冽の気持ちではもうここに居るのも嫌だから、澄子の墓に建てる大理石の碑が出来次第、一同でここを引き上げ、しばらくどこか風土の良い土地で、この事件の悲しみを忘れるまで、滞在して、そして帰国するという考えである。勿論、この考えが賛成され実行された。

 その間の品子の振る舞いは大抵読者が察したであろうが実にうまい。もっともらしく、悲しみを帯びていて、多くは口もきかず、日頃の雄弁などは少しも持ち出さず、実はもう、冽が全く我が物になるべき時が来たのだから、雄弁を用いる必要が無くなったのだ。そして出来得るだけ、冽の傍には行かず、冽に顔も合わさないように努めている。

 是が深遠な奥の手だ。冽が寂しがっている時だから、余り近づかないようにしていれば、自然に恋しがられる。こっちが避ければ避けるだけ、先は益々寂しく、益々恋しくなる。それも、普段の場合なら寂しさを消すために外出もするが、冽は家の中に謹慎しているのだから、品子が顔を見せないからと言って、他に心を移すような女を見る気遣いはない。全く品子の為には、万に一つも失敗のないごく確かな勝算の見える時が来たのだ。少しも勝算の無い所にさえ勝算を作り出す程の女だから、いよいよ勝算が見えたとあっては、決して取り逃がす事はない。

 そして、なるべく冽を避けながらも、この家の主婦人のなすべき仕事はことごとく自分が引き受けてやっている。品子が居なければこの家が治まらないと言うように、早く冽に認められたいのだ。イヤ、既にもう、認められては居るが、この上にも深く根を下ろしたいのだ。

 取り分けて力を注ぐのは、良彦の取り扱い方である。良彦を手なずけることは、あたかも裏門から攻めるようなもので、大願成就を早くする元だから、ほとんど、自分の子を愛するように愛し始めた。良彦が品子を本当の母のように思う頃は、冽が品子を最愛の妻のように思う時だろう。作戦計画は実に綿密だ。
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 だがしかし、良彦の本当の母、冽の本当の妻澄子は、今何処に何をしているのだろう。汽車で死んだ婦人が、澄子でなくて、憐れむべき粂女であることは、今更言うまでもなく、読む人が知っているはずだ。そうすれば、澄子はどこにかまだ生きている。

 ここで、澄子の事を説かなければならない。澄子はあの夜、駅の待合室で、粂女に切符を渡し、自分は汽車の出る混雑の際に、そっと忍んで立ち去った。暗さは暗し、誰もその姿を認めたものはいない。そして、或いは乗り合い馬車に乗ったり、或いは徒歩になったりして、よしんば後を追う人がいても、尋ね当てられない様にして、夜の明けるまで落ち延びた。

 その先はいずこか、前から物の本を読み、このフローレンス(フィレンツェ)から、数キロ離れた所に、カンポという山村が有ることを知っている。カンポは山から山に入る途中に在って、都の人などが入り込む所ではなく、ほとんど、人間との交通を絶っていると言っても良いほどの所だから、もし、この村に身を潜めたら五年が十年でも人に尋ね出される事がないと、澄子の読んだ本にあった。

 前から、世を嫌う心が有るのだから、自然の感応で、この事が心に残っており、その上に、行き方なども、おぼろながら心に留めて有ったのだ。いずれにしろ、この村にしばらく滞在し、ほとぼりの冷めた頃、ゼノア(ジェノバ)に行き、ゼノアで粂女に会って、共々英国に逃げ帰ろうというのが、初めからの考えだから、この村を指して急ぎ、夜の明ける頃にようやく着いて、或る村人の家の空き室を借りた。

 世と交通しない村人でも、部屋代を払うとさえ言えば部屋は貸してくれる。煮焼きの事などもしてくれる。そしてそこに宿ってみると、全く物の本に在ったとおりで、人間世界の外へ出たような気がする。



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