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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           二十 「そう行かねばならない」

 晴れ渡った青空でも、薄雲が掛かり始めると、ついには風雨という、大変動が来なければ止まらない。瀬水子爵一家の上にも、今、薄雲が掛かって居るのだ。澄子と品子と冽と三人の間の関係が丁度薄雲である。そして、黒雲となりかけている。どのような変動、どのような雨風、イヤ、どうかそのようなことにならなければ好い、と言ったところではもう間に合わない。
 しばらく、その変動の来る前の色々を記しておこう。実に、大抵似たような事で、記すのにも及ばないような事だが。

 ところで、澄子の産後の肥立ちは、思ったより悪く、60日を経て、ようやく、床を離れたが、産の前とは大違いで、バラのような色であった頬も血の気が失せて青白くなった。床を離れたとは言うものの、心の中には、少しも健康がないと言っても好い。わずかに小児良彦の笑顔に気の開く事があるだけで、それ以外は鬱(ふさ)ぎがちだ。

 所が、しばらくこの良彦と、別れなければならない時が来た。それは、澄子が、宮廷へお目見えの為、ロンドンに行かなければならなくなったのだ。所謂、これからが、社交の季節で、ロンドンに行けば、毎日毎夜、宴会夜会と、招かれもし、招きもし、貴顕紳士と応対しなければならない。野の花のように育った澄子には、とても出来ないが、夫の身分に対して勤めなければならないので、ほとんど死地に入る気持ちで行くことになった。

 それにしても、良彦を連れて行きたいと言ったが、聞き届けられない。これは、母親と品子が反対した。母親と品子が一致したからには、澄子が何と言っても通らない。通らないと知っているから、ただ、「アア、又か」と心の中で嘆いただけで、何も言わずに従った。乳母に任せて、空気の好いこの本邸に置くのが、良彦の為だと、母親も品子も口を揃えている。

 昔から言う、姑は鬼、小姑は鬼千疋(せんびき)、澄子はつくずくそう思っているだろう。とりわけ、その姑の身分が違い、その小姑が、知恵があって、夫に気に入られていて、その上に、嫉妬心まで持っていては、千疋ではきかない。

 やがてロンドンに行き、別邸に入った。母御も品子も勿論一緒で、特に、品子は澄子と共に女王陛下へ謁見を仰せつかるのである。
 夫冽は身に余る栄誉として、澄子の衣服や飾り物に、費やせるだけの金を費やし、尽くせるだけの手を尽くした、

 服は後ろに長く裾を引いた曳衣(ひきぎぬ)で、首には金とダイヤモンド、燦々たる冠を戴くのである。浮き世の果ての樫林郷に生まれた澄子にとっては、何事もただ、意外なことばかりで、曳き衣はどのように扱い、花冠はどのように付けて好いのかさえも知らない。その名を聞くだけで、身が縮む思いがする。

 悔しいけれど、この様なことは、品子に教えて貰う外はない。品子が教えるなら好いけれど、教えると見せて脅(おど)かすのである。事ごとに「このようなことでは、宮廷に出て、きっと失策をしますよ。」と言って、それでなくてさえ恐れている心に、ますます恐れをいだかせる。これでは、荘重な宮廷の儀式の中で、泰然と応接が出来るはずがない。澄子自らどうしても、失策無しには終わらない事ともう恐れ入っている。

 「アア、澄子がもう少し品子に似ていれば好いのに」とは、ますます冽(たけし)の心に強くなる思いである。いよいよ、宮廷に今日出ると言う日の朝、澄子は恐る恐る花冠(かんむり)を頭に戴いた。この載せ方がどうもうまくいかない。

 そばで冽が見ていて、あれこれと気をもんでいると、鬼千疋が走ってきて、「やはり澄子さんは野の花か何かを挿す方が似合っています。ドレ、花冠はこう着けるのです。」と言いながら、澄子の頭から返事も待たずに花冠をもぎ取り、自分の頭に載せ、そして、高く頭を挙げ、体を真っ直ぐに引き延ばして、部屋の中を歩んだ。妙に品子はこの様な事がうまい。冽は、「そうだ、そうだ、そう行かなければならない。」と言って、我を忘れたように賛成し、そして、澄子に振り向いて、「本当にそなたは、少し品子に見習うが良い。何事も品子のように行かなくてはしょうがない。」と言った。

 この言葉を聞くのがロンドンに来てから、早や、三、四度目である。いつもただ黙っていたが、この時だけは悲しくなった。「品子さんの真似ばかりしては澄子が無くなります。いっそ品子さんが私と入れ替われば好かったのでしょうに。」と言った。澄子がこれだけ言うのは、実によくよくの思いからだ。

 冽は流石に悪かったと思ったか、「イヤ、品子には品子の長所が有り、そなたにはそなたの長所があるのさ。品子とそなたを替わられてたまるものか。」と笑顔で軽く澄子の額の辺にキスをした。

 実に女の機嫌を取るのは簡単なことと見える。澄子の気持ちはこの一語で納まった。けれど、品子のこの時の顔は見ものだった。


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