nonohana31
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
三十一 「何を嫉妬」
手をとって引き立てるようにして植物園に連れて行ったかの品子は、究極の雄弁を振るうときが来た。舌一枚で澄子の位置を滅茶苦茶にする覚悟である。実際、品子の舌には確かにそれだけの力があるのだ。
先ずちょっとの間ただ悲しげ、心配げに構えて何も言わずに居たが、冽の同情が少しこちらに動いた頃を測って、
「本当に貴方のお耳にこのような事は入れたくはないのですよ。」
と言いかけた。
それほど冽の耳に入れたくなければ黙っていればよさそうだが、聞いた冽は眉をひそめた。
「言わずに放っておいて、もし、外の人の口から貴方の耳に入れば、品子が付いていて何故今まで知らせてくれなかったと、貴方から御叱りを受けるようにも成るだろうし、だから私にはもう澄子さんのお守りは勤まりません。」
前置きがなかなか長い。けれど、大いなる雄弁は先ずこのように、地歩を築いてからでなければ、振るうことが出来ないのだろう。冽は全く釣り込まれて、早や、首を突き出した。
「いや、あの通りのふつつか者ですから、貴方に迷惑をかけることが度々あるのは、私も良く知って、イヤお気の毒だと思っております。けれど、言うだけのことは言って下さらないと。」
「それが私には出来ないのです。人の落ち度を数えたてるようなことは、天性私は嫌いです。」
これほどの偽りがまたとあるだろうか。
「ですから、影へ回っては、こうなさい、ああなさいと、前から、貴方や、伯母さんから頼まれて居るとおり、静かに注意して上げますのに、少しもそれをお用いなさらず、イイエ、用いないのは構いません、それは誰の損でもなく、ご自分の損ですから、ハイ、それは構いませんけれど、この頃ではひどく嫉妬なさるのです。」
冽にしてもし、その身と品子との間に、真に我が妻から、嫉妬を受けるべき理由が有れば、必ず、この言葉に、当惑し閉口もするところだが、少しもその様な理由が無い、無いのに妻が嫉妬を表わすと聞いては、立腹しないわけには行かない。彼の眉間の筋は見る見るうちに太くなった。
「エ、澄子が嫉妬を、何も嫉妬などするいわれが無いでは有りませんか。一体全体何に嫉妬するのです。」
何をと、品子を指して言うことは勿論出来ない。
「さあ、何に嫉妬をなさるのか、澄子さんの心は少しも私には分かりません。けれど、これはもう、私の邪推ではなく、澄子さんを知っている人は大抵認めていますよ。今夜なども、寄るとさわるとその噂をしているのです。それだから私が申しあげる前に外の人の口から貴方の耳に入ってはなおさら私が済まないと言うのです。」
およそ、自分の妻の事や我が家内の有様が、人の噂の種とされるほど腹の立つことはない。冽は無言で歯ぎしりするようにしたが、
「イヤ、それはお知らせ下さって実に有り難いと思います。けれど、私の内事が、寄るとさわると人に噂されて居るとは余りに意外です。」
「ハイ、私も意外に思いますが、その通りですから致し方有りません。ナニ、この様に人の口端に昇るのも澄子さんが悪いのです。人の前であからさまに私を嫉(そね)むような素振りを示すのですもの。」
冽は嘆息して、
「アア、そうですかねえ、そうまではしたない振る舞いは無いだろうと思っていましたが、やっぱり私の油断でした。けれど、その一例を挙げて見れば、どのような事柄ですか。」
「私はこうまで詳しく言うつもりは有りませんでしたが、今夜などは実にひどいのですよ。」
と少し泣き声となり、
「来客の一人が、瀬水子爵はもし古城の見物など好みはしませんかと聞かれましたから、私が兼ねてそのような事がお好きのようですと答えましたら、澄子さんが横合いから厳しい声で、私の夫の事を一々貴方がどうして知っていますと血相を変えて言いましたから、その人も極まりの悪い様子で立ち去りました。
私は顔から火が出るように思いました。それはもう、初めの身分が身分ですから、人を嫉むのは仕方が無いと、私は前から何事もこらえていましたが、人の前であのように言い込められては、ナニ、私は構いません、けれど、それでは人が噂するのも、仕方がないというものです。」
妙にまわり遠く、妙に気兼ねを見せて言う言葉に、驚くべき力がある。冽は全く酔わされたようになって、
「澄子がそのように嫉妬の念を、しかも、人前で現すとは実に思いも寄りませんでした。よろしい、良く当人から聞きましょう。イヤ、貴方が注意して下さらなかったら、どのような事になるか分かりませんでした。」
と言い、胸に一方ならない怒気を隠して、澄子を尋ねに行った。
実に今夜を過ごされない問題であると冽は思い、諸所を見まわして、ついに、ダンス場の隅で休んでいるのを見つけだした。
「少し聞くことがある。一寸お出で。」
とぶっきらぼうに言って、引き立て、同じく植物園の一方に連れて行った。ここには品子も誰もいない。
澄子は何事かと、ただ不思議に思っていた。冽はまず腰を下ろさせ、ほとんど手荒と言うべき程の声で、
「聞きたいことがある。ありのまま答えて貰わなければならない。」
澄子は又も何事か品子の方面から起こってきたと察した。けれど、恐れはしない。
「はい、ありのままに申しますとも」
返事も何やら普通ではない。
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