simanomusume74
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十四) マチネーの催し
自分が巨万損失を引き受けてでも、将(は)たまた、劇場の株主に成っても、一旦引き受けた柳本阿一の戯曲は、世に出して遣り度いと思っている。此の様に、進み出しては後へ引か無いのが、網守子の気質と見える。宛(あたか)も弦(つる)を離れた箭(や)の様な態(さた)である。
若し此の相談を受ける捨部竹里が、少し軽佻(かるはず)みの人物であったならば、話は何所まで逸(そ)れて行ったか知れ無いが、幸いに彼は篤実(とくじつ)《人情に厚く、誠実であること》の紳士であった。色々と親切の言葉を以て、網守子を諭した。
結局話は、網守子が「マチネー」として知られる、一種の内演会を催すと云うことに帰した。「マチネー」とは、親しい人だけを招き集め、饗応を兼ねて戯曲なり歌曲なりを演奏して見せ、其の批評や評判を聞くのである。
是をするには、空けている劇場を借り、役者を雇って為(す)ることも有る。或いはズッと内輪に、素人中の有志者が演奏することも有る。孰(いず)れにしても、莫大な費用の掛かることでは有るけれど、「万」などと言う大金を使うには及ばない。網守子は此の案が気に入った。
「ではマチネーに致しましょう。其れも商売人を雇うか雇わないか、其の辺の事は、少々考えが有りますから、追って貴方へ知らせますが、其の節には何うか戯曲の事に明るい友人を、沢山に連れて来て下さい。」
竹「商売人を雇うとか、劇場を借りるとか言う様な、大金の掛かる方法ならば、私も一応谷川弁護士の意見を聞いた上で無ければ、賛成は出来ませんが、単に貴女の私邸で催すならば、喜んで出席もし、ご相談にも応じます。」
是で一応の話は極まった。
次に網守子は小笛嬢の詩の事を相談した。之は、
「実物を拝見した上で、価値の有る作品ならば、何処かへお世話致しましょう。」
と答えた。
又次に非常に異様な相談を持ち出した。其れは蛭田江南の書いた絵を買い度いけれど、自分が買い主であると知れては、困る事情が有るから、竹里の手で買受けて呉れないだろうかとの事である。
竹里は少し考えて、
「其れはお易い御用ですが、江南の画は此の頃、安い値段では買えません。」
網「何れほどの値でしょう。」
竹「其れは当人に当たって見なければ分かりませんが、先ず五千円(現在の約五百萬圓)も出せば、相談が出来ようかと思います。」
一枚の絵が五千円、是が即ち、路田梨英の絵の相場であると思うと、今更の様に梨英の手腕が、非常に貴く思われるに連れ、何だか江南に五千円を横取りされる様な気がする。
けれど躊躇せず、
「では買い入れて下さい。」
と頼んだ。
斯くて分かれを告げ、其の帰りに更に路田梨英の「鼠の巣」を訪(と)うたけれど、今日も梨英は不在であった。
時間を過ごすため美術館に立ち寄り、夕方に及んで又尋ねたけれど、又不在であった。
注;マチネー・・・昼間興行、夜間公演を原則とする西欧では、週のうち特定の曜日のみ、午後の興行を行う。
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