巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune25

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.18

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                二十五

 皮林育堂がこの様な所に来て居るのは、是は前から打ち合わせてあったのだ。彼は偶然の様に見せ掛けて、男爵家に出入りする道を開こうと欲(ほっ)し、さも風景を愛して漫遊する人の様に装い、この所で男爵夫婦の登って来るのを待って居たのだ。

 永谷はこの約束を忘れていたのでは無いが、今日ここに皮林が居合わそうとは、今が今まで思って居なかったので、真実に打ち驚き、何うしてと叫び問うと、育堂はずる賢しこさに掛けては第一なので、同じく非常に驚いた様に、顔を上げ、
 「オオ、永谷君か、君こそ何うしてこの様な所に、エ、余(あんま)り不思議じゃ無いか。」

 何の不思議な事が有るものか。自分が勧めて永谷をこの所に来させたのではないか。永谷は唯だ皮林育堂の捷(はしこ)い才智に感心し、この様な男の智恵を借りれば、如何なる願いも成就しない筈は無いと信じ、然るべく言葉を合せて、
 「ナニ、ここは僕の伯父常磐男爵の荘園だから、それで僕は二週間ほど前から、来て居るのさ。」

 皮林は常磐男爵の名を聞いて、急に尊敬の意を生じて、しかもその意を端下(はした)なく現わさ無い様にしようと努力する人の様に装い、少しの間モジモジしていた。最も巧者の俳優と雖もこれ程までには演じる事は出来ない。

 「オオ、そうかネ、僕が今写して居る彼(あ)の立派な屋敷が君の逗留して居る屋敷だネ。是は不思議だ、実に不思議だ。僕はここから直ぐ近くの村に来合わせているのだが、この辺りに君の様な親友が居ようとは実に思いも寄らなかった。」

と且つ驚き、且つ喜ぶ様、心に何の邪気も無く、唯若気の楽しさに満ち満ちて、眼前の小欲に頓着しない前途多望の好年少紳士とのみ見えるので、今まで傍に控えていた常磐男爵は、我が身もかつてこの様な時代が有ったものだと、殆ど懐かしい想いがせられ、新夫人の手を取ったまま、永谷礼吉の立つ辺まで進み出で、

 「コレ、礼吉、己(おれ)をも其方(そなた)の親友に引き合わせて呉れ。」
と云う。
 永谷は益々皮林の魔力に感心しつつ、伯父の意を受け、伯父夫婦と育堂とを引き合わすと、伯父男爵は満足気に笑みを浮べて、育堂に向い、
 「オオ、貴方は中々の絵師と見えます。その書き掛けた下絵を見ても、日頃の御勉強が分ります。」

 皮林は愈々打ち解けた調子の中に、巧みに一種尊敬の様子を籠めて、
 「イヤ、唯だ下手の横好きと云う者です。絵師では有りません。本業は外科医者ですが、未だ実際に人の身体を引き受けると云う程の、重い責任には耐えられませんから、開業は致しておりません。修行中です。この頃、一月程の暇を得ましたから、気保養の為と思い、日頃嗜(たしな)む絵の道具を携え、漫遊かたがた、行き着く先で馬を借り、この通り、目に留まった景色を写しています。」

 男「イヤ、それは若いのに似合わない好いお心掛けです。シタガお宿は。」
 皮「ハイ、直(じ)きこの下の阿部村と云う所で、田舎の宿に泊まって居ます。」
 男「アア爾(そう)ですか。阿部村ならば、私の屋敷から僅かに四マイル、田舎人の言葉で云えば、四マイルは隣同志です。今日は是非、馬の儘(まま)で私の屋敷までお帰りを願いましょう。晩餐を差し上げますから。」

 皮林は寧ろ迷惑そうに、
 「イヤ、更(あらた)めて伺いましょう。ご覧の通り、この様な旅行着の儘で晩餐に列なるのは、余りに失礼です。」
 男「ナニ、その様なご遠慮に及びますものか。」
と云いつつ男爵は、新夫人園枝の心如何にやと相談する様にその顔を振り向き見ると、新夫人は何事も男爵の心を以って心と為し、男爵の好む事は、自分も何より嬉しいと思う程なので、厭な顔する筈は無い。男爵は安心して、

 「イヤ、屋敷へ帰りました所で、外に遠慮する客も有りません。唯この三人丈の晩餐です。何うせその絵は今日中に出来上がりはしないでしょう。妻も懇望致しますから、何うかお出でを。」
と云い、更に、
 「ネ、園枝」
と顧みるに、新夫人も笑顔で賛成の意を示した。

 皮林はここに至って、辞退することは出来ないかの様に、
 「では、ご好意に従いましょう。」
 彼れは勿論、この様な厚意に従う目的を以ってこの土地に来たのだが、更に深く心に計(たくら)む所がある。先ずこの新夫人の人と為りから充分に研究し、その上で、追々その奥に及ぼうとする心なので、初めから熱心過ぎて、却って疑われる事を怖れ、成る丈控え目と云うことを守り、新夫人に向っても、寧ろ遠慮に過ぎる程の有様だが、其の鋭い眼は唯是の間に、通例の人が三日も夫人と交わったほど、夫人の身辺(みのまわり)を見て取り、心の中に、

 「フム、非常な美人だ。男爵家の夫人となる丈の徳は天然に顔に備わって居る。ハテな、乞食同様の境涯から救い上げられたのだと云うけれど、生まれは矢張り高貴の家に違いない。下等社会や貧乏の家に育った者は、務めてもこう自然の品格は出て来ない者だ。併し待てよ、自然の品格が有っても、天然の徳が備わって居ても、俺の智恵には叶わないだろう。今に見ろ、この新夫人が勝つか、己(おれ)が勝つか。」
と呟(つぶや)いた。


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