sutekobune30
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
三十
嗚呼(ああ)、禍は常に幸いの中に隠れて居る。この様に皮林育堂が、深い企計(たくらみ)を廻らせているとは、誰一人知る者が無いので、男爵夫婦も来客一同も、この家のことを人生の極楽世界かと思い、日と無く夜と無く打ち解けて打ち交わり、唯歓笑娯楽に時を過ごした。実(げ)にも羨ましい境遇である。
この様な中にも、一同の客から取り分けて親しまれるのは、彼皮林育堂である。彼は良く学問を知り、俗事を知り、良く語って、良く人を慰め、骨(かるた)に、玉突きに、何一つ人より一歩秀でないものは無い。特に彼が妙を得ているのは、洋琴(ピアノ)を弾く技芸である。社交界に競合する、紳士貴夫人達の事なので、誰もがその技を持たない者は無いけれど、皮林育堂ほど、その弾奏の巧みな者は稀である。
彼れの洋琴(ピアノ)に新夫人園枝の音声を合わせれば、真に天下の双美とも云うほどで、人々は仮令(たと)えイタリアの大音楽場に行っても、之れより上の音楽は、聞けないなどと云い、毎夜二人に所望するので、夫人は主となって歌い、皮林は従となって洋琴(ピアノ)を弾く。一夜毎に調子が上がり、一回弾く毎に妙を覚える。
勿論、新夫人の音声は限りないほど豊かにして、麗しいけれど、皮林のピアノ伴奏がなければ、これ程までに、自由自在に現し得ないだろうと思われる所がある。男爵も皮林のピアノの為に、我が妻の技が益々妙を現すのを喜び、好き客を得たものだと、或時彼に向い、その技能を賞すると、皮林は少しも誇らず、
「イヤ、貧家に育った私の様な者は、種々(さまざま)の芸を知らなければ、身を立てる道が無いと思い、物心覚えてこの頃まで、唯だ芸事の稽古に許(ばか)り掛って居ました。その中にも音楽は天性の好きですから、最も身を入れて習いましたが、併し、ナニ、新夫人の芸とは雲泥の相違です。
新夫人は真に音楽の天才と云う者で、この後も何(ど)れほど上達するか分らず、私は唯、天才の無い者が、無理に勉強して叩き上げた丈ですから、この後幾等苦しんでも、是より上は登りません。今でも夫人の声と夫人のピアノには、殆ど節を合わせる事が出来ないほどです。」
などと云った。
勿論夫人の技には、未だ遠く及ばないけれど、連弾者(つれびき)としては、充分夫人を扶(たす)けて余り有る。
この様にして一夕、毎(いつ)もの様に夫人と皮林は大喝采の中に音楽台に上り、合奏を始めたが、この時、男爵は好い席を客に譲り、自分は余ほど離れた窓の際で、感心して聞いて居ると、漸く第一曲が終り、是から第二曲に移ろうとする頃、フト我が傍らを見ると、何時の間に来ていたのか、彼の当年満二十六歳と聞こえた倉濱小浪嬢、自分と並んで座していた。
嬢の様に、万事に通じた社交家の褒め言葉は、男爵が特に尊敬して聞くのを喜ぶ所なので、男爵は聊(いささ)か謙遜して、我が体を少し斜めに嬢が方に向けると、嬢は今聞いた音楽に深く心を動かした様子で、
「本当に新夫人は、音楽の技を天から授かって生まれ出た方ですよ。咽喉と云い、指先と云い、何うして彼(あ)アも自由自在でしょう。特に新夫人は皮林さんの様な達者な連弾者(つれびき)を得て、何れ程かお楽しみな事でしょう。」
と云った。お楽しみとは新夫人の良人(おっと)であるこの男爵に向かって、取り様に由り、幾等か耳障りの言葉だが、男爵は気にもしない様子だ。小浪嬢は更に何気ない調子で、
「新夫人ほどお上手ならば、却って連弾者は邪魔になり相な者ですが。ネエ男爵、私共でさえ、何方かと云えば、連弾者が邪魔になります。」
と云い、又更に、
「尤も、アアも達者な方が、親類の内にお在りなさって、そうして連弾を仕て呉れるのは格別です。」
男爵は初めて聞き耳を立てて、
「親類、---親類とは何の事です。」
と問う。
浪「イヤサ、新夫人にアレ程、音楽の達者な従兄弟がお有り成すっては、さぞ楽しい事だろうと思いますから。」
男「エ、エ、従兄弟とは。」
浪「ハイ、皮林さんは夫人の従兄弟でしょう。そうではおあり成さらないのですか。」
と云い掛けて男爵の顔色を見、初めて口のすべったのに気が附いた人の様に、
「オオそう、そう、私の思い違いでした。阿兄(あに)さんを従兄弟と間違えるとは、先ア、私も何たる疎々(そそ)っかしい女でしょう。オホホホ。」
極まり悪るそうに打ち笑ったが、男爵は中々笑うドコロの場合では無い。
小浪嬢は間髪も入れず、ダメ押しの一歩を進め、
「夫人の婚礼前のご名字を伺わない者ですから、この様な疎(そ)そうをするのです。御免下さいまし、男爵。そうでした、皮林園枝嬢と仰りましたっけネエ。」
と恐る恐るの様に問う。
男爵は我が妻の婚礼以前の事を、推(お)し問われのを好まず、婚礼前に名を知られないのは、即ち素性の無い女にして、この問は当然の様ではあるが、取り様に由り、非常に我が妻を、辱めるにも同じことなので、額に青い筋の現われるのを隠す事が出来ず、この様な場合には不似合な程鋭い声で、
「妻は牧島園枝です。牧島家の一女です。」
と言い足し度いことは山々なれど、家と指して云う、その家を知ら無いので、どうする事も出来なかった。
「ハイ、皮林では有りません。育堂氏と兄妹でも何でも無く、少しの縁も無いのです。」
と言い切った。小浪嬢は何とも呆れた様な調子で、
「オヤ、本当にネエ。」
と叫んで間を合わせるだけ。
「本当にネエ」の一語、是れは訳も無く、意味も無い言葉で、この様な場合には適当な句ではあるが、嬢の口から出るには、その声の出し方に、一種何とも云はれないほど、不愉快な意味がある様に聞こえる。
この様な所こそ、嬢が満二十六年の経験で、交際の技に長けた所であり、褒めながら謗(そし)り、謗り乍(なが)ら褒める。皮林が嬢を大事な道具と見たのも、嬢のこの様な技量を見込んでの事に違いない。
男爵はまだ何事をか言い度い様に、眼の角を尖らせて、キッと嬢の顔を見ると、嬢は宛も我が言い過ぎたのを、悔やむかの様な体で、故(わざ)とその顔をそむける。
この決着はまだ中々に面倒である。
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