sutekobune50
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
五十
我が妻園枝が、皮林育堂と共に去ったと聞く、其の驚きと腹立たしさに、男爵は全く眼に朱を注ぎ、叫ぼうとしたが声も出なかった。倉濱小浪嬢は唯一人、園枝と皮林が立ち去った時の有様を、偸観(ぬすみみ)て知ったとは雖(いえ)ど、其の秘密は最も珍重すべき者なので、最後の時まで胸の中に蓄えて置く心で、茲(ここ)では云わなかった。
唯だ客一同が知る丈の事柄を、言葉巧みに話し出し、一同が立ち去ろうとする時、急に新夫人の姿が見えないのに気が付き、一同は之を捜索する為、大いに帰りが遅く成ったと語り、更に新夫人だけでなく、皮林も見えないこと分って来て、様々に心配したが、下部(しもべ)の中に、皮林が、新夫人を小馬車に載せて、屋敷へ送り届けると云ったのを聞いた者が有る事が分り、初めて、さては二人とも、客を捨て置いて引き上げたかと、一同この様に安心して帰って来た事などを云い、成る丈男爵の心を騒がせる様、一々傍に立つ永谷礼吉を証人とし、
「ネエ、永谷さん」
と念を押して告げ、永谷も其の度に、
「爾(そう)です。倉濱嬢の仰る通りです。」
などと相槌を打った。
男爵の驚きは実に譬(たと)える者も無い。流石は気位の非常に高い貴族だけに、客に対して、強いて其の驚きを押し隠し、
「常磐家の夫人とも云われる者が、他人に背後(うしろ)指を指される様な事をする筈は無い。」
と云わない計りの色を示そうと、我慢の上に我慢したが、我慢で隠せる様な驚きでは無い。
唯だ一目、男爵の顔を見れば、男爵が全く妻の不義を悟り、煩悶に胸も張り裂けるほどなのを知る事が出来る。
しかしながら、男爵は更に耐えて、
「イヤ、皮林氏は万事に行届く方ですから、園枝の疲れた様子を見て、労(いた)わって連れ帰って呉れたのでしょう。併し、其れが猶(ま)だ帰り着か無いのを見ると、途中で馬車でも倒れたか、それとも気分が悪くて医者の家へでも寄ったか、何しろ心配する程の事は有りますまい。」
と云い消すのは、只管(ひたすら)家名を思い、身分を思う為で、心中は如何(どれ)ほど辛いことだろう。
アアこの様に勤めたが、更に耐える事が出来ない事があった。更に思ひ出した様に、
「イヤ、心配は無いとは云え、此のまま置いては皆様に心配させる様な者、主人である私が打ち捨てても置けません。ドレ、途中まで下僕を見に遣りましょう。」
と軽く云ったが、是には全く我慢の綱も切れたので、下僕に命じる為と見せて、逃げる様に客一同の傍から退き、自ら下僕の控所に行って、最も厳重なる命令を下した。
其の意は十人の下僕が、二人づつ五組に分れ、第一は本街道を、第二は右方の枝道、第三は左方の枝道、第四は俊足の馬に乗り、遊山場まで一直線に馳せて行き、気の付いた丈けの事を、成る丈至急に復命し、第五は途中の医師を初め、茶店、其の外、人が住んで居ると思われる所を、綿密に見て行けと云うところに在り。
何と云う、
「下僕を見せに遣りましょう。」
と軽く云った其の言葉に似ない厳重な命令で有った事か。
男爵は是だけの事を命じたが、再び客の前に我が顔を示すことは出来ず、其の儘(まま)居間に退いて考えて見るに、
「二人は何で帰らないのだろう。途中で怪我でもしたのか、将(は)た又、無名の手紙に在った様に、是が不義の証拠にして、二人とも唯だ痴情(あいじょう)に迫られて、身分をも打ち忘れるまでに至り、前後の思慮も無く駆け落ちをしたのだろうか。
何度考えても判断が付かない。実に男爵は、園枝が道端に死骸と為って見出されたならば、我が心が如何ほどか休まるのにとまでに思った。
大怪我の為、其の美しい顔も乱れ、死骸と為って現われて来れば、我が家の不名誉だけでも、免がれる事が出来る。若し駆け落ちと事が決まったら、この身を如何(どう)しよう。真逆(まさか)園枝が皮林などに欺かれて、駆け落ちするほどの、思慮の足りない女とは思われない。仮令(たと)え不義は働くにしても、家を捨て、身分を捨て、再び世間に顔向けの出来ない様な、愚かな事はしないと思うが、何の為、皮林と立ち去ったのだろう。
此の家、此の庭、此の立派な荘園は、数知れない常磐家の一切の財産と共に、園枝の物と成り、子が生まれれば、其の子を当家の主人とし、園枝と此の財産を分かつまでに定めて有るのに、之を捨てて、書生同様とも云うべき、名も無い若紳士に見代えるとは、真に天魔に見入られたのかと、独り怪しんでは考え、考えては又怪しみ、立ったままで、部屋の中を廻(めぐ)りなどして、夜の明けたのも知らなかった。
其の中に五組の下僕は、追々に皆帰って来て、近辺十マイル(16km)四方に、園枝と皮林の跡形無しと云うのに決した。
アア怪我では無かった。駆け落ちである。園枝は愈々、英国に又と無い大財産と高貴の地位とを、一皮林に見代えたのか。怪しむべき限りであるが、乞食同様の生活を送った者は、再び其の生活を恋慕う事さえ有ると聞く。
最早や痴情(あいじょう)の為め、此の家を捨てた者と見る外無し。男爵は何うしたら好いか分らなかった。唯だ他人に此の様を見られるのが、何よりも辛いので、自ら入り口の戸に、内から堅く錠を卸し、従者さえも近付け無い様にして、猶も様々の思いに沈んで居ると、朝の八時かと思われる頃、外から厳しく戸を叩く者があった。
「コレ老友。戸を明けぬか。」
と叫ぶのは、聞紛(ききまご)うべくも無い、彼の小部石(コブストン)大佐である。男爵は殆ど憐れな声で、
「イヤ、今朝ばかりは御免蒙(こうむ)る。お前にも逢う事は出来ないから。」
と云う。
大佐は外から、
「ナニ、己に逢ふ事が出来ない。爾(そう)は行かない。逢わなければならない用事が有るのだ。ヨシ、ヨシ、それなら一日でも二日でも、逢える時が来るまで、茲(ここ)に立って此の通り戸を叩(たた)き続けに叩いて居よう。」
と云い、太い杖の頭で、戸の板が砕けるほど、叩いて止まない。是れは磊落なる大佐の気質とは云え、抑々(そもそ)も大佐は何の用があって、この様に男爵に逢おうとするのだろか。
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