sutekobune9
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
九
甥の永谷礼吉は真に鉄をも溶かす程の愛嬌ある笑みを浮かべ、手を差し延べて進み寄ったが、伯父である常磐(ときわ)男爵は石をも凍らせる程の余所(よそ)余所しさで、彼に我が手を握らせようともせず、却(かえ)って一歩背(うし)ろに退き、冷ややかに永谷の顔を眺め、親身の甥に云う様な打ち解けた言葉は用いず、全くの他人に向う様に、恐ろしいほど丁寧に、
「イヤ、永谷さん、男爵常磐幹雄は唯だ正直な紳士とだけ握手の礼をするのです。貴方は紳士でも無く、正直な人でも有りません。」
と言い渡した。今迄幾度も伯父に叱られ、伯父の意見を受けたけれど、この様に落ち着き、この様に余所余所しい言葉を聞いた事は無い。
しかしながら彼、未だ今迄の轍(てつ)を思い、伯父の怒りは我が弁巧で解き得る者と思い込んでいるので、驚きは驚いたけれど、敢えて恐れず、懐かしさに耐えられない様な音調で、
「エ、伯父さん、貴方はまアー。」
と呼び掛けたが、厳重なる男爵の顔は弛(ゆる)みも動きもせず、依然として落ち着き澄まして、
「イヤ、今迄私を伯父などと呼んだ事は、全然忘れて頂かねばなりません。伯父甥の関係は消えました。」
と云い、更に、
「併し、話が多少長くなるかも知れませんから、先ず腰を卸(おろ)しなさい。」
と殆ど恭(うやうや)しいまでに腕椅子を指し示した。
何というその仕向けの丁寧なことか。怒れる声は平気で聞き流す永谷も、怒らないこの声には、恐れを催さない訳けには行かなかった。さては今までの小言とは小言の質(たち)が違うのかも知れない、漸(ようや)く不安の想いを醸(かも)し、命の儘(まま)その椅子に寄りながらも、窃(ひそ)かに伯父の顔色を卜(うらな)うと、底の底まで唯我が身を賤しむばかりで、親身の愛と云う分子は一点も無い。
男爵は迫(せ)かず、騒がず、
「イヤ、今日貴方を呼び迎えましたのは、意見でも無く、立腹でも無く、真面目に言い渡し度い事が有ります。小事ならば貴方の行いが直れば許しもしましょう。立腹ならば心が治まれば解けもしますが、今日云う事は、生涯唯一度の言い渡しで、充分に考えた上の事で、解けても許しも致しません。」
と一寸の抜け道も無い様に断り置き、男爵は更に沈痛にして、しかも明白な音調で、徐々(そろそろ)と、
「ハイ、今日限り、私と貴方とは全くの他人です。路傍(みちばた)に寝て居る乞食でも、私に取って貴方ほどの他人は有りません。分かりましたか。」
と念を押す。永谷は余りの事に、
「エ」
と一言。
常「イヤ永谷さん、今迄私は随分堪(こ)らへて居たのです。貴方の不身持ちが、何れほど私の耳に入っても、ナニ貴族の血筋だから、止む時は止むだろうとこう思って、大目に見ましたが、今と云う今。初めて貴方の本性が分かりました。最も確かな筋、ハイ、争うにも争われない、最も正直な親友から、貴方の卑劣な行いを、悉(ことごと)く知らせて呉れまして、初めて目が覚めたのです。兼ねて御存知の通り、私は充分に考えた上でなければ、物事を決しませんが、一旦決した上は、何事が有っても、その決心を動かしません。ハイ、今度は充分に考えて充分に決しました。貴方と私は今日限り、本当の他人です。」
この伯父に他人とせられ、何を便(たよ)りに世を渡り、何を食らいて命を繋(つな)ごう。男爵はこの所まで察したと見え、
「併し、貴方は今迄乞食としては育てられず、貴族として育てられた丈に、乞食の仕方は知らないでしょう。依って、乞食丈はせずに済む様に、一年二百金の割りで、月々貴方に支払うよう、銀行に言い付けて有りますから、一ヶ月十六金余り銀行から受け取って、乞食の苦痛だけはお逃れなさい。尤も、月々十六金を受け取る外、前借も何も出来ないようにして有ります。」
アア、一年に二百金、貧民の身に取っては、命を繋(つな)ぐには足りるが、今迄の永谷の身としては、一月の小遣いにも足りない。交際の為には、一日、否一時間に幾百金入用の場合すら有り、一年二百金とは、殆ど無いにも劣る程なので、永谷は是で我が身が、再び世間に顔さえも出す方法が無い零落の谷底に、深く深く沈み込み終わるのを知り、躍起となって、
「エ、伯父さん、何の罪で私をこの様に邪険に成されます。」
常「何の罪、ハハ、何の罪が有ると問うよりも、貴方の身の何所に罪の無い所が有ると問いなさい。まだ合点が行かないとならば、ここに二通の手紙が有ります。その手紙を見れば、貴方は何れほど不義非道で、何れほど残忍酷薄かと云う事が分かります。」
永谷は伯父に隠れてする振る舞いが、悉(ことごと)く伯父に分かるべき筈が無いと頼み、更に仔細に聞けば、何の様にしても弁解の道は有るだろうと頼んでか、
「手紙とは、何の様な手紙です。」
と勢い強く問掛る。
常「イヤそうお問に成らなくても、唯今貴方にお目に掛けます。二通とも貴方に宛てた手紙ですが、貴方は気に留める必要も無いと思ったか、読んでそのまま放って有ったのを、ある人が拾い上げ、種々(いろいろ)の事情で、私の手に渡りました。何うも悪い事は出来ない者です。」
と云いながら、衣嚢(かくし)から古い手紙二通を取り出し、これを渡すと、永谷は先ず上の一通の上書きを見、顔を火の様に赤くしたけれど、まだ服罪する様子は見えなかった。
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