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妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第二十一
入って来た巡査は妾(わらわ)を引き立てながら、
「判事の呼び出しだから直ぐに行って罪が無いなら無いだけの言い開きをするのだ。」
と少し親切に教えてくれた。妾は我が身に罪がないので、別に言い開くほどの事もない。今も未だ夢路をたどる思いをしながら深くは考えもせずに巡査の後に従って行くと、今度は前の馬車にも乗らず、警察本署のの構内を右左に潜(くぐ)り潜って、又一方にある広大な建物の中に入った。これが妾の運命を定める裁判所である。
巡査は妾を引いたまま二階に上がり、長い廊下を何度か折れ曲がって、とある一室に進み入ると、中に控えていたのは判事であろう。年は四十あまりで身なりも甚だ立派である。
読者よ。妾は今まで判事と言う名前を聞くだけだった。その人柄を見たことが無かったので、きっと容貌は鬼のようで、一目見て振るい上がるほどだろうと、密かに覚悟していたが、今この人を見て、その柔和なのに驚いた。意地悪い古山と一つの汽車で旅をしたことを思えば、判事の前に出るのは極楽に移った思いがした。
その心の中は知る由もないが、目に見ただけのところでは一廉(かど)の紳士である。妾がその人柄を見て驚くと同じく判事も又妾の様子を見て驚いたと見え、先ず巡査を呼んで何やら囁(ささや)くと、巡査は心得たように何度か頷いて出て行った。判事は次に又書記と思われる者を呼び、同じく耳打ちをすると、書記も又心得て立ち去った。後には判事と妾二人である。
判事は宛(あたか)も社交界に出て夜会の席で初めて大家の令嬢に会ったように、恭しく立って手を揉みながら妾の傍に進み来たので、妾はたちまち心中に一種の疑いを引き起こし、この人、もしや妾が古池華藻嬢であることを知り、このように尊敬するするものではないか。もしやこれまでにどこかで会い見知ったことのある紳士ではないか。
妾は赤らむ顔を何気なくつくろいながら目を開いて十分にその顔を眺めたが、何となく見覚えが有るような気がした。だからと言ってこの土地は警察の門札に、
「サレス」
と記してあったので、妾は夢にも知らない土地である。この様な所に知っている人が居るはずはない。世に似通った顔付きは沢山あることなので、これもきっと妾が見たことのある人に似ているだけだろうと気を取り直して再び見ると、アア、読者よ。その澄んだ目付き、その涼しい口元、何となく村上達雄に似たところがある。
これも心の迷いではないか。村上の怨霊がまだ妾の心に残り、他人の顔までもこのように見せるものではないか。妾は立ったままで又恐ろしさにゾッとした。判事は非常に温和な声で、
「サア、どうかこれへ」
と言って妾を椅子に就かせた。その声さえも村上に似ているように思われるのは、妾の心が益々迷うものと見える。
今にも又判事が全く村上と見えるようになるかもしれない。この温和な判事の声が恨みを帯びた村上の声に聞こえることになったらどうしたらよいだろう。アア、妾の身には一寸の間の安心もない。判事は、
「御免ください。私も椅子に掛けます。」
と断って腰を下ろし、十分に言葉の調子を真面目にして、
「巡査の報告で見ますと、貴方の夫深谷賢之助と言う者が、昨夜火傷をして亡き人の数に入ったとか。私は承って涙が出ました。貴方のお嘆きはさぞかしとお察しします。ナニこの様なことにわざわざお呼び立て申すには及びませんのに、そもそも私がお宿まで参上してお話を伺うところですのに、どうも巡査などと言う者は誰彼の差別が付かないので毎度、もう罪も無い方にとんだご迷惑をお掛けします。こればかりは私からお侘びをして置きます。」
と非常に丁寧な言葉つきに妾はかえって薄気味悪い。
判事は早くも妾の心を見て取ったか、
「イヤ、初めてお目に掛かり、このように申してはお疑いもあるでしょうが、全く私一個の資格でお尋ね申すので、どうか御腹蔵なくお申し立てを願います。全体、アノ火はランプから起こったように聞きましたが、どうしてランプが賢之助の上に倒れましたか。きっと寝返りでもするはずみに手が触れた事だろうとは思いますが。」
と言いかけて、妾の顔を眺めるのは、返事を待つ心に違いない。妾はこの様なことまで押し返して判事を欺くのは罪が深いと思い、
「イイエ、そうではありません。アレハ私がツイ投げましたので。」
(判)ハハア、貴方が、如何してお投げになりました。
(妾)ランプの置き所を変えようとして、その下の所を持つと非常に熱く焼けていまして、思わずも投げ出しました。
判事はしばらく無言で考えた末、
「フム、それは不思議です。ランプと言うものは油が入っていますので下のほうまで熱くなるものでは有りませんが、下の方が熱くなるには先ずその油が湯のように煮え立って、その煮え立った熱さが下に移るなら別ですが、例え夜通し灯して置いたところでアレだけの火で下の油が煮え立つという筈はなく、手の付けられないほど下の方が焼けるとは聞いたことがありません。」
成るほど判事の言う通りである。ランプには冷たい油があり、その下が火のように熱くなる筈は無い。しかしあのランプは妾が手を添えた時、全く火のように焼けていた。そうでなければ妾が投げ出すはずは無い。アア、読者よ。熱いと思ったのも又妾の心の迷いだったのか。アア、如何しよう。心の迷いで熱かったとは答えても、判事はそれを真実とはしない。
(判)それは何か貴方の思い違いでしょう。
読者よ。妾は何と返事をしたら好いだろう。
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