巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime37

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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         第三十七回‎ 「足許より陥落」

 当惑の余りに思わずも発する一語、
 「死に際の所天(おっと)を救いに行くのです。」
と云うのを聞き、春川が打ち驚くのには無理は無い。しかしながら春川よりも、もっともっと驚いたのは、此の語を発した清子自身だった。

 今まで十年に余る艱難辛苦(かんなんしんく)も、唯だ下林三郎が、自分の所天(おっと)である事を、隠そうとする為だけだったのに、自らその秘密を口走しるとは何事だ。全く前後錯綜する幾多の事情に攻められて、一時心が顛倒(てんとう)するに至り、自ら制する力をまで失った者に違いない。

 春川は落ち着いた気質なので、驚いたけれども慌てはせず、『所天(おっと)とは誰ですか、貴女に所天(おっと)がありますか。』
 清子は又も、
 「お放しください。」
と打ち叫んで藻掻(もが)いた。

 春「エ、死に際の所天(おっと)とは、何して何所で死に掛けて居るのです。」
 清「どうか春川さんお放し下さい。私の身は、もう人様から親切などを受ける事の出来ない身です。汚らわしい。ハイ汚れて居ます。汚れて居ます。」

 此の秘密が一人にでも知られれば、此の世には生きて居まい。
自ら自分を殺して、生き恥じを免(まぬが)れようと、兼ねての決心は今もまだ清子の胸にある。清子は最早や、全く死すべき時が来たことを感じた。

 山番の妻、盗人の妻、懲役場から出て来た人の妻と、人に知られて、何で此世に顔を晒すことが出来ようか。何も彼も、早や是れ迄であると、身を搔き毟(むし)ろうとする有様である。春川は且(か)つ怪しみ且つ憐れむ語調で、

 「若しや貴女は、下林三郎を救いに行くのでは有りませんか。若しや貴女が下林のーーーイヤ真逆(まさ)か、妻と云う筈は無いでしょうが。」
 扨(さ)ては春川、彼の山番の本姓が、下林である事をも知り、彼に妻がある事をまで知っているのかと、清子は自分が踏んで立って居る大地が、急に我が足許から崩(くず)れ落ちるのに会う様に驚き、

 「エエ、その様な事をどうして貴方が御存知です。」
と叫んだまま、藻掻(もが)いて居た力も忽ち消え、綿の様に春川の腕に萎(しお)れ掛かった。
 春「イヤそうならば、その様にお驚きなさるには及びません。私は貴女が思って居るよりも、多く知っているのです。」

 清「エ、エ、どうして。」
と打ち問う様は、全く下林の妻である事を、白状したのにも同じければ、春川は自分が知っている事情を説き明かし、
 「イヤ下林と言うのは、蘇国(そこく)《スコットランド》の一士族で、多少は人に知られた家柄です。

 長男は戦死し、次男が家を継ぎ、三男は邪道に踏み迷った今の山番三郎です。私は三人とも知って居ます。今の三郎も私が学校を卒業する頃、その学校へ入学し、少しの間同窓生と為って居たのです。

 その後三郎が身を過(あや)り、銀行の金を使い込んで、懲役に成った事も新聞紙で見て、下林家のために、気の毒な事だと悲しみましたが、此のたび、此の家へ来て、山番に非常な学者があるなどと云う噂を聞き、物好き半分にその男を見ますと、容貌も子供の時とは多少変わって居ますけれど、確かに下林三郎だと見て取りました。

 変わり果てた有様に憐れを催し、何とか身の立つ方法でも講じて遣ろうかと思いましたけれど、彼れの心が改まったか否も分からず、且つは私に声を掛けられては、嘸(さぞ)や面目なかろうと察し、少しの間様子を見ての上でと、手控えて居ますうち、今朝彼れが、誤って自ら自分の銃で、大怪我をしたとの事を聞きました。

 それでは捨ても置かれないと思い、彼れを番小屋へ尋ねますと、彼は半死半生の姿で、口に清子清子と呟いているのです。併し清子とは幾等もある名前ですから、貴女の事とは思いも寄らず、唯だ私は戦地で覚えた応急の手当てを施し、出来るだけ慰めて帰りましたが、

 彼れは此の世に、一人の友でさえも無い身ですので、酷(ひど)く私を頼みにして、何やら言いたそうな様子も見えました。それゆえ私は午後になって、時刻を計って再び彼れの許へ行きました所、丁度、目が覚めた所で、彼は私へ過ぎ去った悪事の懺悔を致しました。

 彼の悪事は、世に云う若気の徒(いたず)らからで、特に彼は自分の才気が働き過ぎる為、少しの事から段々に深入りしましたので、多少は憐れむべきところも有りますが、取り分け彼が後悔しているのは、
 「セント・アイナ」の海辺で、捕縛せられた当日の朝、或る少女を欺いて、婚礼をしたと云う一条です。外の罪は亡びるけれど、此の罪ばかりは、その女から許して貰わなければ無くならないと言って、その事許かり嘆いています。そうして彼は、その女を欺いた成り行きから婚礼の様子、捕縛の様子まで、詳しく語りましたが、

 如何にも女に対し、余り甚だしい欺き方ですので、私は若しその女がその名許(なば)かりの婚礼に縛られて、今もまだ独身を守っている様子なら、なるほど汝の罪の中で、その罪が一番重いと云いました。そうすると彼は、全くその女が、今もまだその婚礼に縛られ、独身で一生を仇に過ごしているのだから、それで猶更、その女の口から許しの言葉を聞かなければならないのだと答えました。

 依って私は、その女の姓名を聞きましたが、之ばかりは彼は答えません。その女自ら、堅く秘密にしているのだから、死んでもその名前を云う事は出来ない。云えば更に又その女に迷惑を掛け、その女の名誉をまで傷つけると言って、堅く口を守って居ます。

 それではその女に逢う事が出来る見込があるかと問いました所、今日がその女に逢う約束の日で有ったから、多分尋ねて来るだろう。若し来なければ、手紙を遣ると云いました。それならば先ず宜(よ)いと、私は再び分かれ掛けましたが、彼はまだ引き留めて、

 若しその女が、自分が死ぬるまでに来ない時には、仕方が無い。その女の名を、貴女へ知らせますから、どうか私の死んだ後で、ひそかにその女に逢い、私の罪を詫び、そうして更にその女の行く末が安楽になるよう、及ぶ丈け見届けて遣って呉れと、涙ながらに云いましたが、

 真(しん)に、「人の将(まさ)に死なんとするや、その云うや善し」と云う東洋の古語の通り、彼は死に際となり、通例の善人よりも更に一層の善心に立ち返っているのです。それですから、私は今三度目に彼に逢い、果たしてその女が、彼の傍へ来たか否やを問おうと思い、今ここまで来て、暗がりながら、貴女の姿を認めましたから、それで此の通り引き留めたのです。
 けれど、今が今まで貴女をその女だとは思いませんでした。」

 長い物語を、清子は涙ながらに聞き終わり、
 「私が今まで、彼の妻という事を隠していたのは、悪事でしょうか。」
と悲しく問うた。

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